石川丈山の事蹟

1.丈山の家系と幼時

丈山の家系と出生

丈山は本能寺の変の翌年、天正十一年(1583年)十月、石川信忠を父とし、三男二女の長男として生まれた。その祖先は、源義家の第六子義時と伝えられ、曾祖父以来徳川氏に仕えた。祖父正信は、天正十二年に長久手の戦いに奮戦し、父信定は、天正六年、駿河の田中城攻撃の際、左股をつかれながらもひるまず、敵をころした。石川家は、このように武勲の家柄であり、母は本多家の出で、徳川家康の知恵袋として有名な本多佐渡守正信は叔父にあたる。
丈山の諱は重之、また凹、はじめ嘉合衛門と称し、また左親衛とも称した。丈山は号で、別に大拙、のちに烏鱗子・東渓・山木山材・凹凸・六六山人・藪里翁・三足老人などとも称した。

丈山の幼時

丈山は幼時より郡児にすぐれていた。二歳の時に隣村の祭りを見に行き、巫女が湯を注ぐのを見たことを後年まで憶えていたといわれ、また、四歳の時にはしのたもとで遊んでいた時、母方の祖父が寺に行くのに会い、むりに同行を頼んで、往里六里の道を歩いたと伝えられる。さらに、五歳の時に疱瘡を患い、親戚の者が竹刀で切開し、血がほとばしり出ても、丈山は少しも驚かなかったという。父は、丈山のこのようなありさまを見て、常に「この児は普通の子供ではない。将来日本一の英俊となるか、さもなくば日本一の悪人となろう」と言い、生まれてより以来、膝の上においたことがなかった。




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2.仕官と大坂夏の陣

仕官

丈山の少年時代は、織田信長のあとをうけて豊臣秀吉が天下を統一し、さらに朝鮮に兵をだした文禄・慶長の役の頃で、秀吉の死によって慶長の役が中止されたのは、丈山十六歳の時であった。
このような時勢にあって、丈山も雄心おさえがたく、官に仕えようとしたが、父が許さなかった。やむなく、十三歳の時にひそかに家を出、忍城(埼玉県)にいた祖父の弟石川遠江守信光の元に至り、意中を打ち明けてここに留まった。
十六歳の時、父を失った。この年、親戚の松平正綱が丈山の境遇に同情し、ある日、家康に丈山のことを話したところ、家康は、石川家は代々武勲の家柄である。遺族に対しては厚く庇護し、ながく自分の側に留めておきたいから、他家に仕えないようにせよと伝え、ついで丈山を召出して近習とした。

家康に従う

丈山は家康に仕え、慶長五年(一六〇〇)十八歳の時、関ヶ原の戦いにも従った。家康は丈山の武勇と、その忠勤を愛でて、寝所の側に侍せしめたという。丈山の武勇と友情について次のような話がある。慶長十二年七月に落成した駿府城は、その年の十二月二十二日に火を発し、殿閣等ことごとく消失した。家康の第十一子頼房(のちの水戸藩主)は、当時五歳であり、頼房をだいた乳母が火災の中にあって泣き悲しんでいた。これをみた丈山は、衣に水をかけ、火を避けつつ二人を救い出した。
このことが縁となって、後年水戸家が丈山を召し抱えようとしたが、丈山は辞退した。なお、丈山の百五十年忌に、水戸斉修(斉昭の兄)が贈った詞の前文中に、

 予嘗て丈山年譜を閲するに、駿府の災のとき、丈山先祖威公(頼房)一時の厄を脱するを載す云々(原漢文)

とある。
また、二十歳の時、親友某が人と争って負傷したので、丈山は二十一日間予も寝ずに看病に尽したという。その友情の厚さを知ることができよう。

大坂夏の陣

慶長十九年(一六一四)十月、久しく反目を続けていた豊臣・徳川二氏は、ついに交えた。これが大坂冬の陣である。十月一日、大坂征伐の命令を発した家康は、十一日に駿府を出発した。家康に近習していた丈山もこれに従ったものと思われる。この戦は十二月二十日の和議によって一先ず終わったが、徳川氏の違約により、翌慶長二十年
(この年七月十三日元和と改元)三月、大坂方は再挙をはかった。四月四日、家康は駿府を出発した。丈山は長年参禅した駿河清見寺の説心和尚に見送られ、奮戦を誓って家康に従い、駿河を後にした。六日、大坂征伐発令、家康は、十八日に二条城に入った。家康はこの一戦で大坂城を攻略しようとし、大坂方、また前年冬の陣の講話で堀を埋められたので、防戦を不利とし、城を出て戦った。両軍の戦闘は四月二十九日に始まった。
家康に従って京都に入った丈山は、不幸にも傷寒(今の腸チフスといわれる)にかかり、生死の境にあって、家康の侍医の治療をうけていた。この時、病床にあった丈山に母より手紙がとどいた。その中に「此度の戦闘で非常の功を立てねば、母は再びお前に会わぬ」と書いてあった。家康がすでに(五月五日)二条城を出発したと聞いた丈山は、奮然起き上って籠に乗り、家康の後を追った。家康は籠の通るのを怪しみ、誰が乗っているのかと問わしめたところ、丈山であると聞いて大いに驚き、さらに追跡の理由を問わしめた。一方丈山は八幡を過ぎる頃に馬に乗り、大いに渇きを覚えて水を三杯ほど飲んだところ、気分がかえって爽やかになっった。その頃家康の使者が来たので、丈山はこれに従って家康の前に進み、母の激励の手紙のことを述べた。五日の夜は河内の国星由に宿営した。家康は部下に、丈山の祖先の武勲を語ったので、丈山は大いに面目を施した。翌五月六日はもっとも激戦であった。大坂方の勇将が多く戦死したのもこの日である。家康は最後の攻城に無益の損害を避けるため、幕下の士の先登(一番乗り)を厳に禁止した。とにかく勝戦には近侍の士が功をたてる機会にめぐまれない。
説心和尚への誓い - 丈山は駿河出発に際し、武勲抜群の者が三名あったと聞かれたなら、そのうち一名はかならず私であると承知ありたい、と誓った - 母の手紙による激励、しかも先登の禁令、おそらく丈山は苦しみ悩んだであろう。七日払暁、ついに丈山は意を決し、ひそかに家康の幕下を抜け出した。丈山は官使と称して加州軍(加賀前田氏の軍勢)の先鋒隊に混入した。ここには丈山の親戚本多政重がいたので大いに便宜を得た。丈山は従者三名を率い、挺身して桜門に向かった。城中よりは弾丸や矢を激しく射てくる。丈山もまた身に数創をおびたが、負傷に屈せず敵を追い、敵将佐々木左衛門以下三名を斬った。先鋒隊では、衆みな本日の武勇の第一は丈山とし、後の証拠のために上役に会えといったが、丈山は本日の先登は功績めあてでなく、全く祖先の名を辱かしめぬ為だと言って取りあわなかった。またこの戦闘中、敵の一勇士を捕らえたところ、僧体であったので、早速禅問答におよび、敵が落ち着いて「紅炉上一点雪」と答えたので、大いに喜んで敵を逃がしてやったという。五月八日、秀頼、淀君は自殺し、豊臣氏は滅んだ。戦後、丈山は先登の功にもかかわらず、禁令を破ったかどで蟄居を命ぜられた。叔父の本多正信は、何とかこれをとりなそうとしたが、丈山は髪を切って妙心寺に入ってしまった。かって丈山は、その武勇のゆえに、水戸紀伊両家より召し抱えられようとしたが、隠退の志ありととして固辞した。この度も戦前から、もし功を立てて生還出来れば隠退するともらしていた。丈山は意志のとおり、隠退したのである。



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3.勉学・浅野侯に仕う

勉学

丈山は武勇に優れたばかりでなく、平素に読書を親しみ、とくに詩を好んだ。
丈山は青年時代から駿河・遠江の間をしばしば往来していたので、富士山の麗姿がやきついていたのであろう。
最初の作とも言われる「富士二首は」よく知られている。

参照 : 右図 「富士山二首」

後年丈山七十七歳の時、明の陳元贇がわが国に帰化して丈山を訪れ、丈山がこの詩をしめしたところ、前者を「起句第一句は遒壮、結句第四句は精巧、真に奇観を得、佳絶と謂うべし」と激賞した。
また、「漁村夕照」の末句に

参照 : 右図 「漁村夕照」

(魯陽公が戦争中、日が暮れようとしたので戈を以ってこれを招きかえしたという故事)とあるのを見て、藤原惺窩は、「この人必ず詩歌の宗となるであろう」と嘆じ、丈山五十四歳の時、朝鮮聘使来朝し、一行中の詩学教授権ちょく(イ式)は丈山と詩について語り、丈山を「日東の李杜なり」と称した。

丈山は書も巧みで、隷書はその得意とするところであった。かつて御光明天皇の勅により、隷書を作って献上し、酒肴を賜った。林羅山は「隷書を能くする者は、中国にはあるが、本邦では丈山ごとき者はみたことがない」と激賞した。
その勉学ぶりにおいても、三十三歳で隠退し、翌年母の病を聞いて江戸に行き、看病の間にも「文選」に和訓を加えて、わずか三十日で終わったといい、また睡気を催すと、座布団をぬらして敷き、水で濡らした手ぬぐいを頭に乗せて自ら励んだほどであった。病気の全快した母を伴って京都に帰ると、丈山は旧友林羅山強ってのすすめで藤原惺窩に会い、たちまちその人格に感じて朱子学を学び、しばしば惺窩をたずねた。

紀州の浅野侯に仕う

このように、隠退して風雅の道に親しんだ丈山にとって、ただ一つの心残りは老母であった。親戚もこのために仕官をすすめたが、丈山は容易にきき入れなかった。三十六歳の時、本多出羽守のすすめで、はじめて紀伊の浅野長晟侯に仕えた。この当時丈山は南浦島鱗子と号した。しかし、その下にあること数ヵ月、やがて仕官にあきたらず、壁に「白鴎(區鳥)は野水に停まらず」と書いて、京都へ帰ってしまった。京都へ帰った丈山は、また自適の生活をおくった。その詩によって一端をしのぼう。

参照 : 右図 「園中口号」

右の為春は戸田花屋、岌淵は武田蒙庵である。また、母のために竹杖を製した時、

参照 : 右図 「竹丈」

広島に仕官

紀伊の浅野家のもとを去ってより五年後、元和九年(1623年)、板倉重昌は、丈山窮乏を憂い、紀伊から広島に転封された浅野侯に請い、丈山に再び侯に仕えるようにすすめた。侯は丈山を遇するに客礼を以てし、千石を給するとのことであった。丈山は、再び仕えることは素志に反するが、老母に孝養を尽すため、ついにこれを承けた。時に年四十一歳。京都出発に際し、羅山らに「母が天寿を全うせば、自分は必ず退官する」と言い、この年の晩秋、広島に向かって出発した。この頃左親衛(さしんえ)とも称していた。丈山の広島在住は、前後十四年間に及んだ。その間、時に京都に出、時に広島地方の名勝を訪ね、間々老母を名勝地に伴った。丈山広島の新居は、かなり広かったようで、庭には桜樹三百本を植えたという。広島在住間の主要な出来事を、若干の詩とともに左に記しておく。
寛永四年(一六二七)丈山四十五歳の時、用務を帯びて京都に入った。あたかも中秋の名月に際したので、吉田素庵(角倉了以の男、通称は与一、字は子元、菜を貞順、謚は玄之、寛永九年没)を訪ねて月を賞し、別れを告げて西帰した。その時の詩
参照 : 右図 「別れを告げて西帰した時の詩」 と「病中雑詠」

寛永九年、藩主浅野長晟が歿した。年四十七歳であった。
寛永十二年、丈山五十三歳の時に、母を失った。

京都に帰る

母を失った丈山は、素志のごとく辞そうとしたが、藩主はなかなか許さず、ついに年を越した。春、いよいよ広島を去ろうと決心し、最後の思い出に厳島で遊び、病気療養のため有馬温泉に行くと称して広島を去った。
船で兵庫の港に着き、有馬温泉に数十日滞在、大阪から舟で伏見に向い、途中雨にあって枚方に一泊し、京都に入った。時に五十四歳。住居は相国寺畔であった。この年の十一月、前述の朝鮮聘使に随行した詩学教授権イ式(菊軒と称した)が、江戸よりの帰途京都本国寺に宿泊した。丈山は、筆談係となって、権と相会した。この時の記録が「与朝鮮国権学士菊軒筆語」である。この頃丈山は、大拙と号した。別れにのぞみ、丈山は菊軒に白柿千枚を贈り、菊軒は答礼として筆法八枚と扇子二把を贈った。菊軒の大拙翁詩巻に題する五律、丈山の次韻がある。また、同年、丈山は正伝寺、石山寺等に遊んでいるが、とりわけ、滝本坊(松花堂昭乗、書家)を訪ねているのが注目をひく。寛永十五年、京都所司代板倉重宗が丈山に幕府に仕えるようすすめたが、謝絶した。重宗とは旧知の間柄で、丈山はしばしば重宗を訪ねた。この頃の詩の一編がこちらである。

参照 : 右図 「退隠集句」

寛永十七年、丈山五十八歳、前年より眼を患った。この年、丈山は東山の麓一乗寺村に詩仙堂を着工、翌寛永十八年、ここに移った。

富士山二首富士山二首
漁村夕照漁村夕照
園中口号園中口号
竹丈竹丈
病中雑詠別れを告げて西帰した時の詩 病中雑詠
退隠集句退隠集句


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4.一乗寺村隠棲と晩年

詩仙堂営の造

丈山が広島より帰洛してから、相国寺畔に住むこと四ヵ年、この間、終生の隠棲に適する地をもとめていたが、ついに一乗寺村に選定し、ここを凹凸窠と名付けた。これは、この付近は土地がいりくみ、そのため、昔から一乗寺が凹凸寺ともよばれていたからである。
その建設費は、丈山が愛蔵する書籍を売り、衣食を節して捻出したものともいい、また、浅野侯が、丈山は有馬に入湯し、ついで京都に帰ったもので、正式に辞職したものではないとして、四年間の俸禄四千石を給したからでもあるともいう。

晩年

丈山は歿するまで三十余年間、詩仙堂に住んだ。その晩年については次の通りである。
寛永十八年(1641年)には、詩仙堂に掲げるべき三十六詩人とその詩を選定した。その苦心については    三十六詩仙    に記すとおりである。






終焉と墓所

寛文十二年二月、眼を病み、三月床につき、五月二十三日、ついに息をひきとった。丈山は妻を娶らなかったので、石川克常が身の回りの世話をしていた。死の三日前に丈山は克常を呼び、
  「自分は礼記にあるように、婦人の手に死なないのを本望とする」
と言い、死の年まで隠退の志を完うしたことを喜び、最後に
  「聖人と雖も多少の欠点はまぬがれるものではない。
  まして自分如きは、いろいろ欠点があった。
  どうかその点は怒(ゆる)してもらいたい」
と述べた。

葬儀は遺言によって儒礼により、二十六日舞楽寺中山に葬った。
戒名は至楽院殿白室雪窓大居士である。






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詩仙堂について

詩仙堂凹凸窠、その後の詩仙堂 など歴史について

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石川丈山について

石川丈山丈山の家系、幼時から一乗寺村隠棲と晩年まで

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御本尊詩仙堂丈山寺の御本尊である馬郎婦観音

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三十六詩仙詩仙堂とよばれる様になった三十六詩仙とは

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